開基

金龍山盛雲院は、元亀年間(一五七〇~一五七三)に創建されている。開基は、乳井美作(にゅうい・みまさか)とその夫人となっている。しかし、美作は寛文二年(一六六二年)、夫人は正保二年(一六四五年)に亡くなっているので、時代が合わず、実際は、美作の祖父福王寺玄蕃か父大隅の創建であると、考えられている。

山号は金龍山であり、大鰐町三ツ目内にあった金龍寺に由来するといわれている。金龍寺の末寺であったが、金龍寺がなくなった後は、耕春院(現宗徳寺)の末寺となって現在に至る。

谷の寺

盛雲院は、昔“谷の寺”と呼ばれていた頃があった。慶長十五年(一六一〇年)に、弘前築城を開始したとされる二代藩主信枚が、津軽の寺を、西茂森禅林街(弘前市西茂森一~二丁目)に集結させる際、盛雲院は「できれば移りたくない」といった為、三十三ヵ寺の中で最も移転が遅くなり、最も悪い場所へ移ることとなった。

焼けた寺

明治三七年(一九〇三年)旧正十六日、本堂裏から、不審火による出火で盛雲院は全焼した。この火災で、当時住職をしていた徳隣和尚が、全身に大やけどの重症で亡くなった。明治四十年になって本堂は、新たに建立することができた。しかし、約七十年という年月で老朽化が進み昭和五三年に改築したのが今の本堂である。